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さて何の宿題をしようか
文 : 丸山美佳
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松根充和が主催する《パフォーマンス・ホームワーク》が発表されたのは、オーストリアで外出規制が出されて数週間が経過した4月中旬だった。物理的な移動制限に加え、家にいなければいけないという抑圧と精神的ストレスに合わせ、経済的かつ政治的な先の見えない不安が畳みかけるなか、キャンセルされてしまった作品やパフォーマンスを発表する機会の代わりにオンライン上での鑑賞コンテンツがすでに急増していた。《パフォーマンス・ホームワーク》は、この世界的なステイ・ホームの状況が解除されるまで、家で一人で出来るアートパフォーマンスを「宿題」とするグループ展覧会のようなプラットフォームである。ヘンリ・マティスがベッドでドローイングしている写真を「ベッドで自画像を描く」という課題にしたり、バス・ヤン・アデルの屋根から転がる映像など古い記録や作品が自宅でのリアクトメントとして展開されたりする一方で、自宅に留まるという同じ状況を共有する国際的なアーティストやパフォーマーの作品が提案や指示書きとして一覧になっている。過去作品であっても鑑賞からパフォーマンスの試みへと位置付けられることで別の角度から作品を読み直す可能性も示しつつも、ソーシャル・ディスタンスあるいは三密が避けられる状況下のパフォーマンス実践である。

松根には同じく「home」がタイトルに入っているプロジェクト《ホームシック・フェスティバル》(2017年〜)があり、自宅での鑑賞からパフォーマンス実践への移行を促す取り組みは、もともとこのフェスティバルで共有されていたものでもある。《ホームシック・フェスティバル》は、フェスティバルと名付けられているが、期間内に多様なパフォーマンスが一同に行われる一般的なフェスティバルと異なり、松根ともう一人のパフォーマーが観客の自宅を訪ね、そのプライペート空間で繰り広げられる専有的なパフォーマンスである。観客は予約をして観客となる人を好きに招いていいことになっており、観客はある程度見知った人々のグループやコミュニティである。松根によると、友人や家族を囲んだ小さな集まりからお茶会など、様々な舞台が個人の家で設定されていたという。記録によると、一緒にリビングルームで踊ったり、抗議運動のプラカードを制作したり、湯船の水を色付けたり、家ごと、観客ごと全く異なるパフォーマンスが繰り広げられていたことが想像できる。この流動性ゆえに、このフェスティバルを包括的に語ることは出来ないだろう。

《ホームシック・フェスティバル》が「自分の『ホーム』の経験、現在地、人生の状況、自分の状態に(再)接続する機会を提供する」ように 、ホームという言葉は家や家族、故郷だけでなく、現在の自分が拠点を置く場所という意味も持つ。さらには、何がホームをホームたらしめているのかは個人的な感情だけでなく、社会的かつ政治的な意味合いも伴う。それを仲間同士やある程度見知ったコミュニティのなかで確認しあったり再発見したりする《ホームシック・フェスティバル》と比べると、個人に課される宿題であるで《パフォーマンス・ホームワーク》は、同じ「ホーム」でありながらも自分と向き合うためのひとりの時間を誘発するものでもある。では、なんのための宿題なのだろうか。コロナ渦中、家にいることを前提に国境が閉じられ、緊急帰国する人もいればその場所に留まる人など、各々が異なる仕方でホームを形成しながら自宅待機をしてきた。一方で、国外退去させられる人々や、境界線上に立たされたままホームが無い人々が生み出され、ますますホームにまつわる問題は再び差し迫ったものとして現れてきている。政治や社会はホームという確固たるものがあるかのように想定し、それを強化しながら、そのホームに適さない人々を社会から追い出したり見えないようにしたりする。ホームを巡って家庭内暴力や人種差別主義者による暴力が生まれ、EUの国境から追いやられホームを無くした人々が異なる死へと向かっていく一方で、多くの者が自己防衛として感染しないように自己隔離してホームを要塞化しているのだ。

《パフォーマンス・ホームワーク》において、アーティストたちによって出されたパフォーマンスの宿題は鑑賞だけの主体から行為する主体への移行を促すことだが、実際にその宿題が求めていることは、身近にある自宅の住居空間や家族を含む同居人や自宅から見える景色を異化する身近なものに始まり、ホームとして想像的に共有されているコミュニティや連帯といったものまで様々な段階で引かれる境界線を再検討することであるように思われる。例えば、アナ・ウィットの《Sixty Minutes Smiling (Fake it till you make it!)》は、表情を含めた身振りと姿勢から、あるチームやグループへ所属意識を偽装することを意識した上でパフォーマンスすることを促し、ユー・チェン・タの《Follow the moves!》はエクササイズに合わせて、私たちが社会的な距離や孤独の中で直面する感情や不安、暴力といった内面的な揺れ動きを身体の動きのインターフェイスを通して再考を行う。

これらの宿題は、これから起こることへの下準備であったり練習であったり身体的な知識の習得であり、今すぐに誰かと共有することができないようなものであり、実践する身体にとっても未知の何かのために行為と経験が折り重なった経験である。過去の芸術実践が目論んだように、いまさら芸術と日常を融解したり芸術が日常に必要であると訴えかけたりする必要はないし、美術館や劇場でするような鑑賞の実践を求めているわけではない。オンラインでの芸術実践がますます支配的されるなか、外出制限が解除されるだろう未来に向けて緩やかに続けられるべき宿題は、各々が持つ個別のホームを共有することの不可能性を示しながら、再び多様な接触が可能になったときにどんなホームが形成されうるのか、あるいはどんなホームが形成されるべきなのかを、日常のなかで一瞬であったとしても、パフォーマンスの身体的な経験を通して思考する宿題を一人一人に出しているのではないだろうか。

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